旧日本軍が第2次大戦で実施した「無謀な作戦」の代名詞として語られるインパール作戦。ビルマ戦線で80年前の1944年3月から7月にかけて実施され、約3万人とも言われる日本兵が亡くなりました。防衛研究所戦史研究センターの新福祐一・2等陸佐は、インパール作戦の源流となる動きが41年12月の太平洋戦争開戦直後から大本営で始まっていたと指摘したうえで、「日本型組織の問題点が浮かび上がる」と語ります。

 ――インパール作戦を巡っては戦後、第15軍司令官だった牟田口廉也中将の作戦指揮に批判が集中しました。

 牟田口中将は「ダメな将軍」「良くないリーダー」の典型として語られてきました。彼が実行したインパール作戦は、英領インド北東部のインパールよりもさらに奥地のディマプールへの突進に固執し、「鵯越(ひよどりごえ)」と称する2千~3千メートル級の山岳地帯を徒歩で越えて奇襲を行う計画でした。その結果、食料や装備が足りずに、多数の戦死者や餓死者を出した悲惨な戦いでした。

 作戦が失敗した原因は、牟田口…

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