那覇市の識名霊園。家型墓が立ち並ぶ一角に、クワディーサーやバナナの木に囲まれた慰霊碑がある。太平洋戦争時、日本の委任統治領だったサイパン島など「南洋群島」で犠牲になった沖縄県人を悼むために、1963年に建てられた。

 「ここに来ると、兄や父が待ってくれていると思って、涙が先に出るんですよ」。16歳でサイパンの地上戦を体験し、兄や父を失った横田チヨ子さん(95)=宜野湾市=は碑の前にたたずみ、何度も目頭を押さえた。月2回、バスを乗り継いで足を運び、家族の御霊(みたま)に語りかけている。

「南洋群島」で犠牲になった人々の慰霊のために建立された碑の前で、サイパンでの戦争体験を語る横田チヨ子さん(右)と国際旅行社の我如古涼太さん=2月21日、那覇市識名(竹尾智勇撮影)
「南洋群島」で犠牲になった人々の慰霊のために建立された碑の前で、サイパンでの戦争体験を語る横田チヨ子さん(右)と国際旅行社の我如古涼太さん=2月21日、那覇市識名(竹尾智勇撮影)

 2月、横田さんの傍らにいたのは国際旅行社(那覇市)の我如古涼太さん(31)。沖縄から南洋群島を訪問する慰霊の旅に昨年、添乗員として同行した。

 識名の碑を訪れるのは、この日が初めて。顔をしかめ、涙を流す横田さんの姿に「サイパン、テニアンで慰霊碑に手を合わせる人々や風景を思い出した。熱量が伝わってきて、必死で聞かないと、と思った」。

 横田さんは具志川村(現うるま市)で生まれ、3歳だった1931年ごろ、サイパンに渡った。第1次世界大戦後の不況で、「ソテツ地獄」と呼ばれる経済的困窮にあえいだ沖縄。兵役義務が猶予され、気候風土も似た南洋群島に多くの県民が渡った。

 自然豊かで、食べ物には困らない生活だった。「日本は神の国、絶対に戦争には負けない」。日本本土と同じように南洋の学校でも皇民化教育が徹底され、軍国少女になっていった。

サトウキビ刈り取りの様子。日本の委任統治領だったサイパンやテニアンなど「南洋群島」には、サトウキビ栽培などに従事するため、沖縄から多くの人々が移民した=南洋群島(沖縄県史資料編15旧南洋群島関係写真資料〈上〉から)
サトウキビ刈り取りの様子。日本の委任統治領だったサイパンやテニアンなど「南洋群島」には、サトウキビ栽培などに従事するため、沖縄から多くの人々が移民した=南洋群島(沖縄県史資料編15旧南洋群島関係写真資料〈上〉から)

 1944年夏、生活の場は戦場になった。6月13日、激しい艦砲射撃が始まり、15日に米軍が上陸。両親や弟、兄家族と一緒に島を逃げ回った。

 島の北部に追い詰められ、大きな木の下で米軍の機銃掃射を受け脇の下を負傷した。「やられた」と叫ぶと、兄が近くに寄ってきた。その瞬間...